(554)世界中の女性コピーライターへ(連結編)
1967年12月号『DDB NEWS』の表紙です。
サブ・タイトルに「クリスマスのお祝いは12月15日」とあります。会場は、マンハッタンでは最高級ホテルといわれていたウォルドーフ・アストリア・ホテルの大ボール・ルーム。まあ、ダンスがお目当ての女性従業員向きということか。食べて、飲んで、踊って---適当に乱れて---。
ただ、表紙写真は去年のもの--ということは、去年もここでやったことになります。'66年は、創業17年目で、ウォルドーフ・アストリア・ホテルのボール・ルームを借り切るほど利益があがっていたということですね。
毎年、その夜の写真が、数10枚、『DDB NEWS』を飾るのです。
しかし、バーンバックさんをはじめ、ユダヤ系の幹部や従業員が多いDDBで、クリスマスを盛大に祝うとは---?
聞き漏らした事項の一つです。
ユダヤ教の新年は、11月ごろだったような。そのころ、DDBを訪問すると、会いたい人は、ほとんど正月休暇をとっていましたね。
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ロビンソン夫人が、それまで広告代理店の経営者が受けていた「コピーライター栄誉の殿堂」入りを、コピーチーフで1968年に初めて受賞したときの一問一答です。
問 最初にお聞きしますが、広告のどういった部門に興味をお持ちでしたか? コピーライティング? それともお得意先部門?広告の花華やかな面にあこがれましたか?
ロビンソン夫人 広告の華やかな面にあこがれたわけではありません。コピーを書きたかったのでしょうね。
問 学歴をちょっとお聞きしてもいいです?
ロビンソン夫人 バーナード大学で社会学を専攻しました。広告研究会などの部活にも入ったことはありません。
どうして広告界にはいってしまったのか---昔を振り返ることがちょいちょいありますが、わたしの記憶では子どものころに商店に影響されたのでしょうね。小学校の先生に大きくなったらコピーライターになるのだといったことをいまでも覚えています。
でも人生にはいろいろのことが起こるもので、次第に政治的、社会的問題に興味を持つようになりました。ヨーロッパではいろんな事件が起こり、わたしはもっと意義のあることをしなければと考えるようになったのです。
そこで社会学を専攻し、政府関係の住宅公社に入社しました。
コピーライターの養成講座は正式には受けていません。
つまり、わたしのコピーライターとしての素質を他人にさわってもらいたくないという一人よがりの気持が強かったのですね。養成講座では、1日に一つはコピーを書かせられるのだし、これは重要なことです。養成講座を受講しなかったのはいま考えても残念です。
問 コピーライターになるのにはどんな学歴がいちばんいいと思いますか?
ロビンソン夫人 学歴は問題ないと思いますよ、ふつうの教育だけでじゅうぶんです。
DDBの優秀なコピーライターのなかにも大学を出ていない人が数人います。
ですが、DDBの社長のウィリアム・バーンバックさんは、ニューヨーク大学で広告とマーケティングを専攻していますが、だからといって、学歴には関係がないのではないでしょうか。
問 コピーライターとしての最初のスタートは?
ロビンソン夫人 メソディスト出版部です。ちょうど第2次世界大戦の最中で、夫がハーバード大学から学徒動員されまして南部に連れて行かれましたので、わたしも南部で公共建築関係の仕事を探しましたが適当なのが見つからず、どんな職業でもいいからという気持になりました。
そのとき、何か広告、宣伝関係でコピーを書いてみたいと思ったのです。
そこで宗教関係の出版社にはいって、牧師さんたちに送るダイレクト・メールのコピーやキリストのカレンダーの広告、子ども向けの聖書の広告を書きました。
当初は、その地方の百貨店に就職するつもりでいたのですが、正式な宣伝部といった組織がありませんでした。
問 最初のコピーライターとしての給料はいくらだったのですか?
ロビンソン夫人 出版社での給料は覚えていませんね。
グレイ広告代理店のときの給料ははっきり覚えています。(彼女は出版社からグレイヘ移った)たしか週130ドルでした。
問 女性のコピーライターとして何かとくにむずかしいことがありましたか?
ロビンソン夫人 全然。
問 すごく影響を受けたコピーチーフ、あるいはスーパバイザーはいますか?
ロビンソン夫人 2人います。1人はもうずいぷん会わないのですが、無料配布誌『パーク・イースト』を発行していたボブ・アルトシュラーさんです。
わたしが大学時代にそこでアルバイトをしたことがあるんです。
その雑誌にコラム欄を一つ設けてもらい、詩を書いたんです。
アルトシュラーさんがいろいろと文章の書き方を教えてくれました。
まず、もったいぷった文章は書かないようにとの注意を受け、ポイントを突いた文章を書くようにいわれました。
ほかの人から初めて文章の書き方をあれこれ注意され、ほんとうにショックでしたが、とても役に立ちました。それ以前に文章を他人から批評されたことはなかったのです。
2番目にウィリアム・バーンバックさんがいます。バーンバックさんはグレイのときの上司で、コピーを引き締めるのと、コピーを生き生きとさせる、この二つを教わったのです。
自分にコピーを書く力がじゅうぶんにあり、いい先生にめぐまれたら、他人からコピーの書き変えを要求されるようなことはなくなります。
とにかく、バーンバックさんの気に入ったコピーを書いたのでしょうか、バーンバックさんがグレイを出て、DDBを創立した途端、誘われたわけです。
問 DDBに行くについてはバーンバックさんといろいろ話し合ったのですか?